目指すべき社会へ~最大個数の最大幸福

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「最大多数の最大幸福」というのは僕の好きなベンサムの言葉ですが、
最近は「最大個数の最大幸福」こそが、社会の目指すべき
理想ではないかと考えています。

幸福になれるミニマムアクセスの所得もない人々が、
アフリカには統計的にまだ5人に1人存在します。
北朝鮮の数値は統計も存在しません。
一方で国民の幸福がGNI(国民総所得)で図れる時代は、
先進国では19世紀、発展途上国の多くも1990年代までに終了しました。
国民総所得(GNI)が増えても、国民の幸福が増えたとは
言い切れない時代になっています。

これは結構深刻な問題で、国民総所得を基準に「上げ潮」等と
言っていたら100年かかっても解決しない問題です。
「幸福」と感じる事ができる人を増やすことが
21世紀の社会がなすべき命題である、
というのことを強調すべく、あえて多数を個数に言い換えたのが
「最大個数の最大幸福」です。
社会全体の幸福をGNI(国民総所得)で量っても、
僕が言いたい「最大多数」と「最大個数」の差は、わかりません。
また、幸福という概念は難しいことに相対的なもので、
今日はご飯が食べられた、ということが幸福な人が
アフリカにはたくさんいるでしょうし、
三食ご飯を食べられても幸福でない人が、
日本にはたくさんいます。

その部分に疑問を持ち、僕は卒業論文で台風被害の調査を行いました。
例えば1980年頃までは世論として、台風により被害があっても
政府(具体的には建設省)を非難することはあまりありませんでした。
堤防の設計ミスにより、国家賠償請求が認められたケースが
唯一特殊な例で、終戦直後の新聞なんか
「今回は被害者が二桁ですんでよかった」という論調すら
あったほどです。

しかし今では死者がでたらもちろん、
道路が半日冠水して遮断されても新聞では
「行政の責任」が問われ「救急輸送に支障」と懸念が出されます。

非難されるのは嫌だし、補助金もがんがん国から出るし、
雇用対策にもなるから道路を作ってしまおう!
というのは行政の担当者として自然な心証であり、
僕はこれを「世論」という名の罪ではないかと思っています。

長々と書きましたが、僕は最近、「幸福」とは何なのか、
資本主義社会において、社会が/組織が「幸福」になる方法はないのか、
という問題に、思考の多くを割いています。
また考えたことがあれば、皆さんに話したいと思います。

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このページは、管理人が2008年7月19日 17:08に書いたブログ記事です。

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